2017年05月06日

陽の当たる場所(作詞・作曲:真島昌利)

長らく更新を止めていた、こちらの全曲解説ですが、
未発表曲があり、それをやり切ると言いながら放置していたので、
やりきります。

また、ブルーハーツが30周年を迎え、
ありがたいことにこのブログも多くの方に見てもらえるようになりました。

そして振り返って自分の当時の見解を見てみると、
「この曲に対して、そう捉えていたのか」と、今とは全く別の解釈をしていて、
特に浅かったな、と思う解説も多いです。

なので、解説内容をリニューアルして、再アップしていこうと思います。

今回は「陽の当たる場所で」

まずびっくりしたのですが、youtubeに高音質の音源がアップされていました。



自分が過去に聞くことができた音はかなり低音質で歌詞カードを見ない限りは何を言ってるのか
わからないものだったので、是非皆様も聞き直してもらえればと思います。


Aメロ。


キレイな服をいつも着ているね
キレイな靴をはいてる
キレイな車乗り回してるね
キレイなネクタイしめて

確かにあなたはキレイだけど
確かにあなたはキレイだけど
美しくはない



何だろう、当時歌われたのは1986年ぐらいのことらしいが、
いまにも完全に置き換えられる(笑)

そして、「キレイ」と「美しい」に言及している、最初の曲であるということ。


というのが、ハイロウズでまたここに触れているのが「タンポポ」

キレイじゃなくても美しいものが僕は欲しいんだ


作詞は同じくマーシー。

このキレイ、と美しい、に対してマーシーが明らかに違いを感じていることがわかる。

これを聞いた時、自分としては「は?」と思った。

つまり、キレイと美しいの違いを意識したことがなかった、というよりほぼ同じだと思った。

しかし、そこは日本人の心、わび・さびのように繊細な感性を持って感じれば、違いがわかる
はずではないか、と思い、考えるのではなく、感じようとしてみた。

そこで、考えた現在の結論としては、「キレイ」は見栄えを良くして形を整えたもの。
「美しい」は、ありのままそのもの自身の形で、その個性を発揮しきっているさま。

確かに、女性でもキレイじゃなくても、美しいと思う人もいるし、その逆もある。

さらに、マーシーはもしかしたら、いやかなりの確率で「岡本太郎」にインスパイアされているのではないだろうか、
という仮説がたった。

「今日の芸術」という彼の著作の中に、こんな一節がある。

「真の芸術はきれいであってはならない」ということに移りましょう。きれいさというのは、芸術の本質とは無関係だからです。「ああ、きれいね」といわれるような絵が、絵そのものの価値ではなく、たいてい、中のモデルによって関心をひいていること、あるいはたんに心持のよいモダニズムにすぎないことは、すでにお話しました。「きれい」とはつまり、ただそれだけの単純な形式美をさしています。(中略)「美しさ」はたとえば、気持ちのよくない、きたないものにでも使える言葉です。みにくいものの美しいものというものがある。グロテスクなもの、恐ろしいもの、不快なもの、いやみったらしいものに、ぞっとする美しさというものがあります。美しいということは、厳密に言って、きれい、きたないという分類にはいらない、もっと深い意味をふくんでいるわけです。 (今日の芸術/岡本太郎)



芸術論にまで飛躍させているわけですが、この初版発行は、1979年。
この本を読んで、感銘を受けたマーシーが作った歌詞が、この「陽の当たる場所で」であることは可能性としてはかなりあり得る話なんじゃないかと。

他にも、岡本太郎はこのような言葉も残しています。

「美しい」ということと「きれい」というのはまったく違うものであることだけをお話しておきたい。
とにかく、美しいというのは、お体裁のいい、気持のいい、俗にいうシャレてるとかカッコヨイ、
そういうものだと思っている人が多い。
しかし美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。
見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、
ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。

それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある。
無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。
しかしそれでも美しいのである。

本当の美人というのはその人の人間像全体がそのままの姿において充実し、
確乎とした生命感をあらわしている姿だと思う。
シワクチャのお婆さんだって、美しくありうる。

鼻がペチャンコだろうが、ヤブニラミだろうが、その人の精神力、生活への姿勢が、
造作などの悪条件も克服し、逆にそれを美に高める。
美人というのは本質的には女性の数だけあるとぼくは思っている。
もちろん男性においてもだ。(自分の中に毒を持て/岡本太郎)


ゴッホは美しい。
しかしきれいではない。
ピカソは美しい。
しかし、
けっして、きれいではない。


こういう話を聞いたり、「美しい」について触れてみると、
だんだん、自分の場合は、「リンダリンダ」にまで言及したくなる。

というのは、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」の真意もここに
関わっているのではないか、と推測してしまうからだ。


しかし、リンダリンダについては、ヒロトの作詞であり、もしもこれが
マーシーとの会話の中で美しさに関することがなかったのなら、全く別物の概念とも言える。

仮に当時のヒロトとマーシーが、キレイ、と美しい、について話したりしていれば、
そこからインスパイアされて生まれたのが、多くの人の人生を変えた一節、
ドブネズミみたいに美しくなりたい」につながっているのかもしれない。
もしくは、ヒロトも岡本太郎の影響を受けていた、とも考えられる。


ここについては、ご本人に確認しないとわからないけれど、聞く側としてはこのように様々な
考察をしてしまうのも、曲の楽しみ方の一つだ。


お金で買えるものと引き換えに
失われたものは何?
痛みに慣れて 背骨砕かれて
手につかんだものは何?

コンピューターで計算された
人生なんて僕はいらない
僕はいらないよ


この辺は、とっても初期のマーシーらしい。
反骨精神のかたまりというか、純粋というか。

ただ、こういう言葉を聞くと、またマーシーじゃなくてヒロトの言葉

デパートで昆虫買ってくるより、「今日は一匹も採れなかった」って言いながら森に行く方が良いじゃん



を思い出してしまう。二人は、やっぱりどこか奥の心の方で、同じような価値観でつながっている部分がある。
まあ、だからあれだけ一緒にやってるんだろうけど。


なんにも持たず生まれてきたんだ
命の他になんにも
死ぬ時だってなにもいらないよ
自由の他になんにも

陽の当たる場所を見つけるには
自分の足で歩くしかない
それしかないんだ



ライブのMCで、この、自分の足で歩くしかない、というのをマーシーが強調していたので、
こういう、裸一貫でやっていくんだ!ということをマーシーは決意したのかもしれない。



マーシーは、死ぬ時のことを歌に出すことが多いのは、昔からだったんだ(笑)

俺は俺の死を死にたい、とか、死人、とか即死、とか。
ローリングジェットサンダーの中では「死んだら死んだで関係ないぜ ちょっとそこらに捨てといてくれ
とか。探せばもっとあるかも。


また、これは陽の当たる場所には、まだ自分はいない、という状態のことを言っていて、
これから見つけに行く、ということだから、
当時のまだブルーハーツがメジャーになっていない背景もあったのかもしれない。

売れずに、陽が当たらないけどロックは好きだから続けてる、というような。



陽の当たる場所で 陽の当たる場所で

あなたに会いたい


最後、あなたに会いたい、という別の誰かが登場している。

これは、要は現在の状況から、自分の足で進んでいった先の世界で、
人に会ってみたい、という願望と捉えた。
つまりは、その時と、会った時の喜びは変わるはずだろう、という。

見えた先の景色を味わって、笑いながら会いたい、というような。


未発表のままで終わらせたのは、本人たちもあまりしっくりきてなかったのかもしれない。

この曲に対して。

なんとなくだが、他の曲との温度差を感じる。

未発表曲から見える、本当に彼らが打ち出したかった作品との違いも、見比べていったら面白いかもしれないな、
そんなことを思う一曲でした。
posted by 荒井コウスケ at 07:32 | Comment(0) | 未発表曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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