この曲のタイトルをきいて、
自分はライン=国境だと思っていた。
国同士の争いをかけて、後ほど出てくるジョニーの話もそうだけど、
「チェルノブイリ」で出てきた、
「誰かが線をひきやがる」が頭にあった。
しかし、それだけではなくいろいろな場面で当てはまる
「境界線」というようなものだと思う。
そして、越える、という表現をされているので、
そこから一歩動いて現状を打破する、という想いも入っているだろう。
出だし
いろんなことを諦めて
言い訳ばっかりうまくなり
責任逃れで笑ってりゃ
自由はどんどん遠ざかる
挑戦しない理由を正当化することを続けていくと、
いつからかその技術だけが上達し、
挑戦しない自分を正当化し、
それにともなって指示待ちをするだけの人間になってしまう。
自由とは責任だ、という言葉があるけれど、
それをうまく説明した歌詞。
金がものをいう世の中で
爆弾抱えたジェット機が
僕のこの胸を突き抜けて
危ない角度でとんでいく
このへんの表現もすこし、ライン=国境なんじゃないかと思わせる。
爆弾抱えたジェット機が、というのはつまり空爆だろうか。
最近の世界情勢でもよくそんな場面が見受けられるが、
金が物をいう、というのは先進国が途上国を支配している雰囲気か、
考え過ぎか。
またそれを自分の胸に置き換えているというのは、
それによって自分の心へもダメージを与えた、ということだろう。
危ない角度というのは、今にも墜落して爆発を拡大させろうな、
そんな不安感を醸し出している。
満員電車の中 くたびれた顔をして
夕刊フジを読みながら
老いぼれてくのはゴメンだ
これは、ラインを越えなかった結果を皮肉っているのかもしれない。
満員電車の中で疲れきって、人の不幸話をまとめたような週刊誌に
目を通して自分だけはマシだといい気になっているけど、
現実は何も変わらない場面。
サラリーマンが毎日仕事がイヤダイヤダといって通勤している姿に何かを
思ったのだろう。
マーシーはバンドマンをやっているからこの状況にはなっていないけれど、
きっとどっちみちサラリーマンにはなっていないと思われる。
この感情が突き動かして、バンドマンをやっていなければ、
他のやりたいことを極めて職人のようになっていたのではないだろうか。
生きられなかった時間や
生きられなかった場面や
生きられなかった場所とか
口に出せなかった言葉
この生きられなかった、というのは自分の意志で動けなかった
ことを指しているのではないか。
余計なしがらみや関係に縛られてしまって、
言いたいことが言えなかったり。
それが、口に出せなかった言葉、じゃないか。
もしくは、もっと昔の過去を思い出しているのかもしれない。
自分が生きてこなかった歴史に、思いを馳せているのかも。
あの時ああ言えばもっと
今より幸せだったのか
あの時ああすればもっと
今より幸せだったのか
机の前に座り
計画を練るだけで
一歩も動かないで
老いぼれてくのはゴメンだ
これも続いていって、自分の意思を貫けなかったこと、
過去を悔やんでいる。
でも、じゃあそれは変えられたことなのかよ?
今からでも変えられるのかよ?
そんなわけないだろ、というような自分自身への反省もこめられているように思う。
つまり、過去は変わらない、ということ。
そして、あんなこといいな、とただ妄想しているだけで
何もせずに老いぼれていくのだけは避けたい、と明確な意思を突き出している。
マーシーは穏やかそうに見えて実はものすごいアグレッシブ。
僕がおもちゃの戦車で
戦争ごっこをしてたころ
遠くベトナムの空で
涙も枯れていた
場面がかわって、幼少の頃のマーシーと、
その時に世界でどんなことが起きていたのかの
対比が描かれている。
自分がやっているのは、誰も傷つかないただの
「戦争ごっこ」
一方ベトナムでは、本気の「戦争」
ベトナムの子供では、涙が出なくなるくらいに
悲しみに打ちひしがれた現実があった。


この場面は次に出てくる映画
「ジョニーは戦場へ行った」の、一場面だろう。
この映画は、幼いころに一回だけ見たことがある映画だった気がする。
今みたら、その現実に耐え切れないぐらいその後の価値観を変動させるぐらいの
映画に違いなく、見る日を選ぼうと思う。(そのくらい重い内容)
あらすじを簡単にいうと
ジョーと呼ばれる男が、最愛の女性と別れをつげ戦争に行く。
その戦争で、目、口、鼻、などすべての物を失うが、意識と性器だけがある。
どうしようもないくらいに思い出に縛り付けられる。
死にたくても死ねない、意識だけが、過去の楽しかったものを思い出させる。
そして、途中でジョーは考えることさえやめていく。
しかし途中でモールス信号というものが、人にSOSを伝える手段だと気づき、
練習するが、周りの看護婦からは痙攣したと思われ、伝わらない。
だけどクリスマスの日に、看護婦がジョーの胸に「メリークリスマス」と
文字を書くと、ジョーはうなずき、それで意識があるんじゃないか、
と看護婦は気づきはじめる。
最後はどうしようもなく救えないらしいが、忘れてしまった。
この歌詞は
これって、このちがいって何だ?
僕は悪いことをしているのか、
なんでそんな違う現実があるんだ、
じゃあ楽しんじゃいけないのだろうか、
今僕にできることはなにか、
そんな風に思いをめぐらしているんだと思う。

ジョニーは戦場へ行った
僕はどこへ行くんだろう
真夏の夜明けを握りしめ
何か別の答えを探すよ
誰かがつかいこなす
ホンネというタテマエ
僕はラインを越えて
確かめたいことがあるよ
おそらく、ここで答えをみつけようとあがく
自分がいるんだと思う。
前述の、「何ができるんだ?」この現実に、というような。
ホンネというタテマエ、という表現は本当にある。
「ほんとだよ!」という嘘。
ラインは、その嘘とホントの境目も意識しているのかもしれない。
そしてこの曲はマーシー作だけど
「ライン」について語っているヒロトも印象的だったので、
それを引用させてもらう
『サボテンブラザーズ』っていう映画があるんですけどね。
あの映画のワン・シーンでものすごく感動的なのがあって。
テレビの中のヒーローだから、ほんとは役者さんなんですよね。
だから拳銃なんて撃ったことないし、
いつも空砲しか撃ったことないんだけど。
ある田舎町で、本物のヒーローとして迎えられちゃうんですよね。
で、あとへ引けなくなっちゃって、
本物の悪人とほんとの拳銃をもって闘う羽目んなるわけ。
服装はテレビのまんまのあのヒーローの格好で。
で、スティーブン・マーチンがねえ『俺はやるぞ』って言うの。
あとのふたりは『もう帰ろうよ、俺たち役者なんだから。
バカなこと言ってんじゃないよ』って。
スティーブン・マーチンだけはね『俺は闘う』っていって
地面にザーッと線を引くんですよね。
『偽者が本物になれるチャンスがきたんだ!』って、
で『このチャンスに乗るのか!
この線よりこっちは男だ、この線よりこっちは負け犬だ!』
みたいなことを言うんだよね。
で、結局三人ともその線を越えて、
その偽者が本物に変身する瞬間があるんですけど、
感動したなあ、あれはなあ。
(「甲本ヒロト・インタビュー」水道橋博士の「博士の悪童日記」2002年07月17日より)
http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/110694.html